五十年前の悲しい想い出

 私は昭和十七年の徴兵検査で甲種合格となって、人並に歓呼の声に送られて軍隊活に入りました。
 日曜、祭日以外は演習という名の敵を殺す訓練を重ねてました。 三ヵ月間は内地勤務でしたが、厳しい訓練の代償は、軍隊でいう俸給一ヵ月分、三円三十銭にしかなりませんでした。郵便葉書が一銭五厘でしたが、我々の生命の代償も一銭五厘の値打ちしかない時代でした。
 また、三ヵ月後には、満州の虎林(こーりん)という所で、毎日人を殺す訓練ばかりをやっていました。
零下四十度の寒さでの半身裸体の寒稽古をして鍛えられたのです。
 軍隊生活に入った年から一年後の昭和十八年十一月、飛行隊員としてラリンへ転科をいたしました。
さらに十九年五月、フィリピンのネグロス島のサラビヤ飛行場へ着任しました。
これた後は満州と一変して常夏の地であり、毎日雨の降らぬ日はありませんでした。

 大東亜戦争とは、今でいう太平洋戦争です。
 戦争とは、人が人を殺すという、なによりも耐えがたいものなのです。ですから私は、戦争は絶対にしてはいけないと、肝に念じております。
そして日本は敗戦を終戦と呼び、占領軍を進駐軍といっています。

    話をしてくださった人・・西谷 豊(名取 当時七十二歳)
    取材・・・・・・・・・・・・・・平成6年度

    編集責任・・・・・・・・・・・平成7年度入学 LEONARDO.W.D (5114)